ブックタイトル連合宮城 2011.3.11 東日本大震災 災害救護ボランティア 受入の軌跡

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概要

連合宮城 2011.3.11 東日本大震災 災害救護ボランティア 受入の軌跡

宮城VC調整チームでの仕事、仙台BCでの仕事仙南地協では、事務所の柴田町への引っ越しが一段落した後、中断したボランティア受入が再開、本格化した4月下旬くらいからボランティアへの対応ができるようになりました。私がボランティア活動に参加する一方で、事務局員は事務所に残って通常業務を行い、毎月、最低1回は事務所で幹事会を開くという形にしました。ボランティア作業に関わるようになってからの私は、東北自動車道などは閉鎖されて緊急物資輸送専用となっていたので、蔵王町の自宅から村田町を通って仙台市の生出、茂庭へと抜ける県道を使って仙台市の連合宮城事務所や仙台BCへと通勤。東北自動車道が使えるようになってからは村田IC~仙台宮城IC間を使って通勤しました。ボランティアの私の対応は、総合調整チームの補助、宮城VC調整チームの補助、BC総務チームの補助、現地対策メンバーの一員という役割です。補助というのは、復旧対応、ボランティア対応で皆、ほとんど休まず働いている状況なので、各担当のリーダーが休みを取れるようにするためと思いました。私が参加する前のVC調整チームは、櫻井副事務局長が一人で担当していたのです。交代で入っても、流れに従って連絡調整ができるようにするという役割を持たされました。ヒアリングコラム8仙台での活動を振り返って仙台周辺では何が起こっていたか、仙台BCで何ができたか仙南地域協議会佐竹一則事務局長(所属:私鉄総連・宮城交通労働組合)櫻井副事務局長と二人、夕方18時くらいから宮城県VCに顔を出し、NPO、日赤などボランティア活動に携わっている団体の情報交換に加わり、情報収集にあたりました。現地対策チームのメンバーとしては、仙台BCの一員となって各地のボランティア作業に同行、管理する役目を担いました。最初に入ったのは多賀城市でした。個人宅の片づけや側溝清掃が中心の作業でした。5月には亘理町に入ったボランティアを担当し、地域のVCと話し合いながら、日程調整、作業の段取りなどをしました。作業ははかどり、次第に数十名のボランティアを必要とする作業は減っていきました。5名前後の小規模のグループ作業で間に合うようになり、亘理町の作業はおよそ1ヵ月で収束。名取市での2日間のカーネーション畑での清掃で、私は仙南地区でのボランティア活動を終えました。6月中旬以降は仙台市宮城野区岡田地区のボランティアに参加し、それが終了するまで関わりました。岡田地区では、VCがあった岡田小学校には駐車スペースがないため、岡田会館にバスをつけて現地へ移動していました。活動を振り返って感じたこと正直なところボランティアと言われても、初めてのことだったのでイメージが湧きませんでした。我々は何をすればよいのか。被災地にいて、片づけや安否確認で手いっぱいの地元労働組合に役割を押しつけることはないじゃないか。連合でボランティアを組織し派遣するのなら、連合で直接現地と話し合って進めればいいじゃないかとも思いました。しかし、よく考えてみれば、連合では地元の市町村構成も分かりませんし、地理も分かりません。VCなどと話し合って毎日の作業場所を決めても、現地に詳しい人間がいなければボランティアによる支援どころか、復旧・復興の足手纏いになってしまって、非難を浴びることになってしまうでしょう。現地のVCと連合の間に立って、宿泊、食事、移動、健康・安全などに目配りできる地道な調整役が不可欠でした。現地対策担当を担った5名の地協事務局長は納得し、やる以上何一つ問題がないように、ボランティアが被災者にとってありがたい存在になるように仕事を徹底しようとまとまりました。例えば亘理町に入った時などは、あらかじめ担当場所と日時が分かるスケジュール表をもらって、小田島事務局長86東日本大震災復興の活動記録