ブックタイトル連合宮城 2011.3.11 東日本大震災 災害救護ボランティア 受入の軌跡

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概要

連合宮城 2011.3.11 東日本大震災 災害救護ボランティア 受入の軌跡

感じはしました。どうしたらボランティアの皆さんに納得できる仕事をして帰ってもらえるか、現地対策班は必死でした。また、ボランティアの人たちは要領がよく、作業にも慣れてきて、仕事が早い。どんどんはかどって、作業がなくなりそうな時期もありました。わざわざ来ているボランティアの人たちに対して、仕事がないという状態は避けなければなりません。だから、現地対策班としては毎日VCの人と話し合い、次はどこ、その次はどこと、スケジュールを調整するのに時間を取り、作業場所の選択にも少しは意見を言わせてもらいました。現地対策班は現場監督だから、全体の細かなところまで目配りしなければならないため、「作業に入れ込むな」が原則でした。しかし、私より年上のボランティアの方たちも泥にまみれて懸命に作業をするので、見ているだけではいられず、つい手伝ってしまうこともありました。塩竈市の復興したかまぼこ工場からポケットマネーでかまぼこを手に入れて皆さんに配ったりしたこともあります。そういうことはしてはいけないと山崎会長からは言われていたことでしたが、我慢できずにやってしまっていました。そして1週間の活動が終わって帰京する時には、北仙台に必ず夜行バスの見送りに出かけました。それ以来、今で第2章復旧・復興への取り組み8月4日、蒲生地区9月8日、岡田地区集めた土嚢を回収してくれる業者の方もおつきあいのある人や団体があります。また、これらの場所では、いろいろと印象深いエピソードもありました。その一つは、斎藤由香さん(サントリー勤務)という、北杜夫さんの娘さんで斎藤茂吉さんの孫である方がフード連合の一員としてボランティアに参加していたことでした。作業が一段落すると、いろいろと質問をされました。時間の許すかぎり質問に答えました。ボランティアが早く終了し、時間に余裕がある時に多賀城市の作業現場からの帰り道に七ケ浜町まで案内して、被災状況を見てもらったりもしました。それらの体験記事が週刊新潮で5週にわたって掲載されたのです(109P以降、参照)。仙台BCを拠点にして、宮城交通労働組合会館に寝泊まりしていたこと、女性ボランティアが何人いたか、どんな思いで参加していたかなどが書かれていました。場所も1ヵ所だけでなく、作業も側溝清掃だけでなく、いろいろの場所で何をしたかが書かれています。名前は記されていませんが、塩釜地協のことにも触れられています。その記事は、組合員に教えてもらって分かったことでした。仙台市宮城野区岡田地区では、住民から差し入れをいただいたというエピソードもありました。仙台BCの宿泊場所としていた岡田会館は岡田地区の公民館的な場所であり、女性用トイレもあり、水道もあって機材を洗ったりもできたので、その場所を離れたくないという気持ちが強くありました。だから、その周辺一体の側溝掃除などにも力が入りました。それを、その地区にあった団地の人々が感謝の目で見ていてくださったのでしょう。団地の人が「ボランティアの人に何か買ってあげて」と募金をしてくれたと言って、岡田地区にあった美容院の娘さんが人数分のアイスクリームを何回にもわたって差し入れてくれたのです。近くなら自転車で、少し離れていれば車で持って来てくれました。最近、訪ねたのですが、その美容院には今でも、連合災害ボランティアが被っていた帽子が飾ってありました。●ボランティアが終わってからの話ですが、ボランティアをした場所を訪ねてみたいと言ってくる人もいました。ありがたくて、丁寧にお教えしていますが、時には、もうなくなってしまった家や地域もあります。汗水たらして復旧・復興の作業をしてもらったのにムダだったという場所は見せたくないし、教えたくないという気持ちになる場合もありました。85