ブックタイトル連合宮城 2011.3.11 東日本大震災 災害救護ボランティア 受入の軌跡
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連合宮城 2011.3.11 東日本大震災 災害救護ボランティア 受入の軌跡
多賀城へ、名取、石巻、仙台へボランティアの話を聞いたのは、山崎会長が視察に来た時に「ボランティアを受け入れることになりそうだから、準備しておいてくれ」と言われたのが最初です。連合がやるのだから、被災した構成組織を助けるためのボランティアといったイメージでとらえていて、労働組合と関係のある被災工場のヘドロ掻きなどをするものと思っていました。被災者一般を支援するための活動だとは思っていなかったのが、正直なところです。ボランティア受入計画が動き始めるとともに、私は大崎地協・後藤事務局長、仙南域協・佐竹事務局長と一緒に現地対策班のメンバーとして、仙台BCへ出勤してボランティアへの対応をすることとなりました。塩釜地協事務所の片づけと引っ越しは、事務局員にまかせることになってしまいました。現地対策班の役目は、BCに貼りついている連合の担当者(仙台BCは須田局長)の指示を受け、地図に従ってバスとともに現地に移動し、現地で地域のボランティアセンター(社会福祉協議会の運営・管理。以下、VC)の人と相談しながらタイムスケジュールを管理し、作業を見守るという“現場の指揮監督”的なものです。作業の全体に目を配ヒアリングコラム7仙台BCの活動を振り返って仙台周辺では何が起こっていたか、仙台BCで何ができたか塩釜地域協議会小田島正洋事務局長(所属:私鉄総連・宮城交通労働組合)り、事故などがないように注意します。破傷風や病気が一番こわいことなので、ちょっと切ったりしただけで病院に連れて行き、注射してもらうとか、薬をもらうとかの手助けをします。後半には女性の参加もあり、宿泊場所の整備や、現場でのトイレを見つける仕事も生まれました。最初の現場は多賀城市でした。地域のVCとの打ち合せの中で、多賀城市に引き受け先があったということだと思いますが、それだけたいへんな被害があった地域でした。まだ復旧作業が手つかずの状態で、作業は個人宅の片づけとドロ掻きが中心でした。バス1台に40人くらいが乗って現地へと向かい、5~6人1組の作業隊を現場で降ろしていきます。私は塩釜地協の街宣車で併走しました。バスには現地対策班が手配した一輪車の機材なども積んでいて、現場で下ろして組み立てていきます。そして、個人宅で家具やテーブルやテレビなどを片づけ一輪車で運ぶ、といった基本的な作業でした。5月に入って、個人宅の片づけがほぼ終わった頃からは側溝清掃の作業になりました。多賀城市の次は名取市の閖上地区へ、その次は石巻市の港地区へ、そして最後は仙台市の岡田地区へと動きました。名取市では高速道路沿いの小塚原地区のカーネーション畑の復旧、石巻市では一番被害の大きかった門脇地区の空き家の片づけ、資材の洗浄、アパートのトイレ掃除、お風呂掃除などの作業に携わりました。私は、震災の1年前くらいまで宮城交通でバスの運転手でした。宮城交通塩釜営業所には十数年いて塩竈市をはじめ多賀城市、七ケ浜町を走っていました。連合宮城塩釜地協に派遣される前は、仙台市交通局岡田受託営業所に勤務し、仙台市岡田・新浜地区、名取市閖上など沿岸部を乗務していたので、この担当エリアはなじみの場所でした。その悲惨な状態に接して、ショックと同時に、なんとかお手伝いできればという強い思いでした。苦労したこと、印象深いこと現地対策班の対応では、仕事のマッチングという難しい問題がありました。ボランティアの人の中には、側溝の清掃作業でなく住宅の片づけ作業をさせて欲しいといった要望がありました。側溝は公共的なことなので相手がいませんが、住宅では相手があり、感謝の言葉を受けることもあります。それがうれしくて、ボランティアの励みになるというのです。もちろん、連合の担当者たちが参加者団体にはそんなことを言わせないように徹底しているため、表立つことはありませんでしたが、そういう気持ちもあるだろうなという84東日本大震災復興の活動記録