ブックタイトル連合宮城 2011.3.11 東日本大震災 災害救護ボランティア 受入の軌跡
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連合宮城 2011.3.11 東日本大震災 災害救護ボランティア 受入の軌跡
ました。それでも、ちょっと気を利かせて資材を運ぶとか、泥だしの袋を運ぶとかはやってしまって、感謝の言葉を受けたりしたようです。ボランティア対応を振り返ってボランティア受入活動に携わって、どんなことが問題になったでしょうか。まずは「ベースキャンプ」づくりでした。100人以上の人を受け入れるわけですから、宿泊場所をどうするか、寝床をどう作るかといった基本的なことから始めなければなりません。ベースキャンプ作りのマニュアルなんてない中で、対策チーム全員で話し合いながら決めていきました。1週間くらいかかりました。おもしろいもので、ボランティアも連合の人間なので、いろいろな現場の人間や営業の人間がいて、こうすればいい、ここから手に入れられるといったアイディアも出てきます。次に困ったのが食事です。夕食は各自調達、朝と昼はBCで用意がルールでした。しかし、物資不足の被災地では毎日の食事の材料を手に入れることに四苦八苦、連合宮城のスタッフも飲まず食わずで仕事をしているような状態で、何十人もの食事第2章復旧・復興への取り組み石巻市渡波中学校にて。現地で対策打ち合せ中の後藤、加藤、富田ボランティアへの感謝を表明を用意することは困難な仕事でした。BCごとに、いろいろのアイデアを凝らして食事を確保しました。ちなみに連合宮城には会長、事務局長、副事務局長3名、アドバイザー2名の7名が休まず常駐していました。ここでは食事をどうしたか。炊飯ジャーを持ち込み、買い出し班をつくって遠くまで出かけて食材を手に入れ、自分たちでご飯を炊いて急場を凌ぐという状態が、初動の1週間くらい続きました。一方で、ボランティア活動に必要な資材については、それほど困りませんでした。連合の災害マニュアルでは、現地に迷惑をかけないようにと、個人が使う作業着、カッパ、長靴、手袋、ヘルメット、ゴーグルなどは全部自前となっています。それらはバスに同乗させるとか、別便で運ぶとかしてBCに人数分が揃えられました。足りなくなれば、緊急で全国に手配されてスピーディーに補充されました。費用は、連合宮城で持ち出したものもありましたが、連合本部負担が原則でした。なお、これらの作業を進めていく上で、齟齬のようなこともいろいろとありました。例えば、ボランティア活動を必要とする被災地には被害状況の違いがあり、地域のVCごとにボランティアの受入に対する姿勢が違うという問題がありました。ボランティア作業は10時~3時の時間帯でという決まりがありましたが、それを厳密に守ろうとすれば、現地の作業が中途半端になってしまう場合もあります。現地には、ボランティアの都合で動かされることでよいのかといった感情もあったと思われます。そのため、ボランティア歓迎の被災地を選んで派遣するといった傾向もありました。また、ボランティアは県外の労働組合からの派遣者です。その人たちのことを被災地の人やVCの人に説明しても上手く伝わらないといった場面もありました。被災地での活動では、いつ、どんな緊急事態が起こるかも分かりません。私はそれに対応し、指示が出せるよう連合宮城から離れないようにしましたが、どうしても現場を見て判断し指示を出す必要がある場合には緊急に現地に飛びました。その時の足になったのは、連合宮城に置いていた街宣車です。いろいろとツテを頼り、山形県などにまで手を広げてガソリンを入手し、自ら運転しました。なお、1クルー1週間単位での受入は、当初はクルー間に休みがないという問題もありました。当然、連合宮城の担当者は休みない対応を迫られました。それでは体がもたなくなったため、ボランティア活動への要請が少なくなった後半期からはクルー間に間隔を入れ、土・日曜を休養日としました。私は、これらの経緯を「連合災害ボランティア対応メモ」(4月2日~9月23日)や「連合ボランティア災害対策本部[連合宮城専従者行動予定表]」(4月16日~10月16日)にまとめています。65