ブックタイトル連合宮城 2011.3.11 東日本大震災 災害救護ボランティア 受入の軌跡

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概要

連合宮城 2011.3.11 東日本大震災 災害救護ボランティア 受入の軌跡

ボランティア対応決定以後ボランティア対応は、「連合ボランティア派遣団における連合宮城の役割分担」にまとめられているように、総合調整を冨田、宮城VC調整を櫻井、ベースキャンプ総務を山田の3名の副事務局長で分担し、現地対策を石巻地協・加藤、気仙沼地協・山本、大崎地協・後藤、仙南地協・佐竹、塩釜地協・小田島の5事務局長が担当しました。仙北地協は専従者がいない体制であったため、2、3日を除けば参加していません。私は、連合宮城事務所に詰め、ボランティア活動の全体を把握し、連合本部派遣者との打ち合せを担い、その記録にあたりました。現地の担当者から、どこで、どんな仕事があり、何名の受入が必要かを聞き、1クルー1~2週間単位として、連合担当者と派遣者数について協議して受入を決定しました。3月31日、第1クルーが仙台BCと姫乃屋BCへと入り、ボランティア活動が始まりました。仙台BCが40名、姫乃屋BCが28名で、4月1日から仙台BCグループは多賀城と石巻へ、姫乃屋BCグループは気仙沼へと入りました。ヒアリングコラム3ボランティア活動は、どのように始まったか「総合調整チーム」の活動を振り返って連合宮城冨田清和副事務局長(所属:電機連合・日立製作所労働組合)4月7日以後に本格化第1クルーの活動が始まって1週間後の4月7日のことです。3月31日に受け入れた仙台BC第1クルーのボランティアの解団式を終え、18時過ぎに北仙台から東京行きのバスを見送りました。その後、会長らと一緒に食事をして事務所に戻って書類整理などをしていたその23時過ぎ、震度6の最大余震が起こりました。せっかく片づけたものが全部崩れてしまいました。再び停電、断水、ガス停止。もう無理だ、何をやってもダメだと絶望的になりました。もちろんボランティア受入も中止に追い込まれました。しかし、連合からの連絡で分かったことですが、ボランティア団は福島インターで国道に下ろされましたが、全員無事。その後、何時間かかったのかは聞いていませんでしたが、事故もなく無事に帰京しました。そして連合は、1週間後にはボランティアを再開したいという意向を伝えてきたのです。地域の被災状況も分かりません。安全確認もできません。こんな中で対応すれば、スタッフがおかしくなってしまうでしょう。1週間後に再開なんて無理な話だと山崎会長、佐藤事務局長と話し合いながら、それでも再開の決断を迫られたのは辛いことでした。決断の一番のポイントは、「被災地のためにやるしかない」ということでした。実は、現地対策班から総合調整チームへ伝えられていたことですが、第1クルーのボランティアを受け入れた地域では「ありがとう」「続けてほしい」といった声が複数あがっていたというのです。そのような成果も後押しの力になりました。総合調整チームとしては再開を決断。連合宮城、地協のスタッフ全員参加でボランティア受入に集中することにし、4月16日から第2クルー受入を再開したのです。●各クルーの取り組みでは、総合調整チームの役割は、毎日の活動の結果について現地からの報告を受け、連合担当者と話し合い、危険度、進捗状況、現地VCの要望などを踏まえて翌日の活動へと反映させていくという作業でした。ボランティアの現場での対応に関して連合宮城の担当者に徹底したことは、「現場で作業をしてはダメだ」ということでした。作業に入ってしまうと、右も左も見えなくなってしまいます。しかし、被災地の作業現場では何が起きるか分かりません。実際、釘を踏み抜いた、怪我をした、腰を痛めた、病院はどこか、といったことは少なくありませんでした。作業現場の安全性を誰が確認するのか。余震が来て、津波警報が出された時など、誰が避難の指示を出すのか。それを監督、管理、対応するのが連合の派遣役員であり、相談しながら具体的に対応するのが連合宮城である、という体制を厳守し64東日本大震災復興の活動記録