ブックタイトル連合宮城 2011.3.11 東日本大震災 災害救護ボランティア 受入の軌跡
- ページ
- 61/140
このページは 連合宮城 2011.3.11 東日本大震災 災害救護ボランティア 受入の軌跡 の電子ブックに掲載されている61ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。
このページは 連合宮城 2011.3.11 東日本大震災 災害救護ボランティア 受入の軌跡 の電子ブックに掲載されている61ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。
連合宮城 2011.3.11 東日本大震災 災害救護ボランティア 受入の軌跡
にはタクシーでの通勤もありました。また、夜は夜で、仕事を終えた本部派遣者に対して国分町で対応するような時もありました。スタッフは一定のスパンで交代していましたが、総括責任者の須田局長は交代なしで県とボランティアと連合宮城の間に入って、ボランティア活動全体を見ていました。連合宮城でボランティア活動の全体に目配りする立場から、須田局長と話し合う機会の多かった私は、そのような人への気づかいは欠かせないものでした。その時間も含めれば、7時から19時くらいまでの12時間勤務も珍しいことではありませんでした。活動の収束、そして感じたこと7月末、福島県における連合のボランティア活動が終了となりました。その時、宮城、岩手の活動はどうするかが討議されました。9月までの予定となっていましたが、継続するか、終了するかというものです。第2章復旧・復興への取り組み仙台ベースキャンプは宮交会館1F&2Fを借用(7月からは1Fのみに縮小)仙台市宮城野区岡田地区での活動は、『岡田会館』を基地として使用させていただいた正直なところ、被災地では徐々に避難所から仮設住宅での暮らしへと移行し、住宅の片づけ、清掃のニーズが減少。それに代わって、農地の瓦礫撤去、排水溝の泥かきなどのニーズが増えるという傾向になっていました。そのような状況でボランティアを継続することにするか。・・・結果は、ボランティアに入りたいという希望があるということから9月までは継続となりました。しかし、8月後半には、気仙沼市でボランティアの受入がなくなりました。結局は、8月28日に受け入れた第20クルーの後半から、新千厩BCの運営は連合岩手にお願いし、ボランティアは陸前高田市に入ってもらいました。そして、残った美里BC、仙台BCも、受入人数を減らしながら、第23クルーの9月23日の解団式で終了となりました。施設との関係でいえば、終われば撤収も即座に完了させなければなりません。連合宮城のスタッフ総がかりで、9月25日に美里BC、26日に仙台BCの撤収作業を実施。ゴミは地域のゴミ処理関係の労働組合に依頼して処分してもらい、食料などの備蓄品や備蓄できない機材などは受け入れてくれる施設や団体を見つけて処分しました。振り返ってみると、「よくやった」という感想が浮かびます。岩手県では、連合岩手傘下の被災しなかった構成組織からスタッフを出してもらって受入事業を進めたようですが、宮城県では構成組織に依頼できるような状態ではありませんでした。連合宮城と地協の事務局だけで対応。加えて、連合宮城では建物の安全性の問題などがあって、震災後1週間くらいには事務局員に自宅待機の指示を出したため、役員だけが休みなく出勤するという時期がけっこう長く続きました。また、ボランティア活動に関しては「連合だからできた」という感想もあります。自衛隊は野営できますが、ボランティアには怪我や病気を防ぎ、寒さ暑さに適応できる宿泊施設が必要です。しかし、連合には阪神淡路の経験から、宿泊場所はホテルではない場所でという方針がありました。仙台BCなどは床板に宿泊できるように工夫したものですから、1週間とはいえ、そこで寝泊まりしたボランティアの皆さんはかなり体に無理をかけたのではないかと思います。それを乗り越え、ボランティア作業に集中できたのは連合の団結力、規律の正しさといったことがあったと言えるのではないでしょうか。仕事量の増減や仕事の内容の変化に適応できたのも、組織立っていたからだと思います。59