ブックタイトル連合宮城 2011.3.11 東日本大震災 災害救護ボランティア 受入の軌跡

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概要

連合宮城 2011.3.11 東日本大震災 災害救護ボランティア 受入の軌跡

3月11日、東京で感じたこと3月11日午後、私は、東京の連合本部で中央執行委員会に参加していました。東京は震度が4でしたが、けっこう大きな揺れで、会議は中断し、そのまま閉会となりました。私は、仙台銀行東京営業所~東京駅と動いて帰仙する方法を探りながら、連合宮城への連絡を取ろうとしました。しかし、なかなかつながりません。夜遅く、最初につながったのが仙南地協の佐竹事務局長であり、佐竹事務局長から連合宮城の佐藤事務局長に話が広がり、夜中の2時くらいには連合宮城の山田副事務局長につながりました。もちろん東京では、停電などは起こりませんでしたから情報は見ることができ、宮城県では海岸部が津波に襲われ、大きな被害が生じていることは分かりました。電話では、そのような情報は簡単に伝えましたが、連合宮城では現在段階でそれほどの被害がないことを聞き、引き続き安否確認に努めるよう話しました。その夜は、出身単組のNECトーキン東京本社を訪ね、宿を手配してもらいました。翌12日には民主党の斎藤(宮城2区)、橋本(宮城3区)の両国会議員から連絡があり、新潟経由で山形~仙台へと向かうという話を聞き、「あなたたちが中心になって国政を動かし、支援に取り組んでくれ」と伝えました。13日も、14日も、新幹線も、飛行機も取れません。14日には、沖縄旅行から羽田へと着いた娘を迎えに行き、東京の妻の実家へと連れて行きました。ヒアリングコラム1連合ボランティア受入にあたって第2章復旧・復興への取り組み連合宮城災害対策本部設置以後のこと連合宮城山崎透会長(所属:電機連合・NECトーキン労働組合)16日に出勤して取り組んだことなんとか帰りのチケットが取れたのは15日のことでした。新潟まで新幹線、新潟から鶴岡まで電車、鶴岡から山形までバス、山形で乗り換えてバスで仙台というルートで、朝一番に出発して、19時か20時の仙台着でした。翌日から自転車で出勤して、ようやく、連合宮城の「東日本大震災災害対策本部」の仕事に参加することになりました。顔を合わせた最初の印象では、皆、地震の大きさに圧倒されて萎縮しており、何も手につかないように見受けられました。地震と津波の被害状況など、東京にいてテレビやラジオ、新聞からの詳細な情報に接することができていた私が一番冷静に判断できる状態でした。結果的には、外から見れる人間がいたことは良かったことかなと感じました。情報を伝えながら、連合宮城のメンバー、地協のメンバー、連合宮城傘下の構成組織などの被災の状態、安否確認の状況を聞き、引き続き状況把握と安否確認を徹底するよう話し合いました。連合との連絡態勢が整ったは14、15日頃からだったようですが、やりとりの中でボランティア派遣の話が出始めたのは17日頃のことでした。連合としては、被害状況や安否確認の状況を聞く中で、連合全体として何ができるかを話し合い、被災地へのボランティア派遣の役割を考え始めたのでしょう。しかし、連合宮城としては反対でした。連合宮城自体が被災者であり、ボランティア受入などの活動に取り組む余裕がない、被災地現場でも迷惑がるのではないか、という考えからでした。連合では、19日に南雲事務局長と磯部総務局長が来局して「とにかくボランティア派遣を実施したい」と繰り返し、22、23日には現場担当の林、西巻両氏が来局して「現場のこまかな仕事は連合本部で担当し、連合宮城には負担をかけない」と強調。来てもらっても話にならないと答えたにもかかわらずの来局で、19日には南雲事務局長の宮城県ボランティアセンター訪問にも同行して県VCの意向を聞き、その後には連合宮城の櫻井副事務局長がVCの受入体制などについて詳しい聞き取りを行いました。もちろん、同様のボランティア派遣対象となっていた岩手・福島の地方連合会とも連絡を取り合い、それぞれの地域事情に合わせた対応をしようという方向になっていました。そして、連合宮城の冨田副事務局長をリーダーとして事務局トータルで動くボランティア受入体制を確立し、受入を決定したのが29日であり、第1クルーが到着したのが31日だったのです。私と佐藤事務局長は、連合との連絡、県への対応、構成組織との連携など、全体を見る役割を担いました。45