ブックタイトル連合宮城 2011.3.11 東日本大震災 災害救護ボランティア 受入の軌跡
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連合宮城 2011.3.11 東日本大震災 災害救護ボランティア 受入の軌跡
大崎地域仙台地域仙南地域仙北地域石巻地域塩釡地域気仙沼地域3.11津波への証言3小田島正洋塩釡地協事務局長の回想3月11日、塩釜地協では、早朝から午前中には三役と幹事で街宣を行いティッシュとチラシの配布などを行い、午後には事務所が入っている塩釜駅前ビル3階(塩竈市海岸通4-13)で若い人たちの勉強会である春闘フォーラムを行い、夕方からデモ行進をして18時から千賀の浦緑地で春季生活闘争集会とデモ行進という予定でした。地協の2人は、その準備のために事務所にいました。14時4 6分、地震警報を聞いた時には、2日前にあった余震の続きかな、揺れもすぐに収まるかなという感じでした。しかし、ビルの揺れはひどく、事務局員が「机の下に隠れましょう」と言うのに従って、生まれて初めて机の下に逃げ込みました。さらに揺れが激しくなってきたので、机の下にいるのも危険になり、2人でビルの前のJ R本塩釜駅前ロータリーへと飛び出しました。道路が波打っており、建物も街灯も明かりが消え、事務所の窓が開いて、揺れるたびに窓のサッシが左右に動いているのが見えました。これを見て、津波が来ると確信。駅前にいた、リュックを背負った観光客のお年寄りにも山側に逃げなさいと声をかけ、鹽竈神社へ逃げなさいと言いました。その後、「街が停電になっているし、警報も出ているし、夕方の集会をどうしよう」「警察に集会とデモ行進の中止を伝えに行かなければならないだろうか」などと2人で話し合ったのを覚えています。電話がつながらないので連絡しようがないけれど、これだけ大きな地震だから中止だろうと皆が判断してくれるのではないか。電話が通じたら改めて連絡しよう、と結論。我々もロータリーから逃げることにしました。2人とも、上着や車のキーなどの貴重品も持たずに事務所から飛び出していました。それらを持ち帰るために余震の中、事務所に戻りましが、事務所の中はグチャグチャ。コピー機やスチール製の書棚も、ドカーンと吹っ飛んだ状態。もしあのまま机の下にいたら亡くなっていたのではないか、と思いました。頭の中では、片づけしながら探そうという気持ちでしたが、30分くらいかけて自分のものを見つけるのが精一杯。片づけなどはできませんでした。5分ほど歩いて市営の公共立体駐車場まで行きましたが、日が陰りかけてきた中で見えたのは建物の壁が崩れたりガラスが割れたりしている様子であり、大きな地震だったのだという実感でした。駐車場の出入口のバーも動かず、1 0~15分間、動かそうと苦心しているところへ係員が来てバーを抜いてくれたので漸く車が通行できるようになったという次第でした。その頃には、駐車場周辺も大渋滞。それでも、運よく事務局員は右折して藤倉方面へ、私は渋滞のため左折して遠回りして自宅へと向かいました。そして津波が襲ってきたのが1 6時前頃のこと。J R本塩釜駅前は水に覆われ、駅ビルは1.5m~1.6mほど浸水し、駐車場も冠水しました。我々2名も津波に呑まれても不思議ではないルートを走っていたのですが、運よくほんのわずか早く渋滞から抜け出せたことにより辛うじて津波に巻き込ま小田島正洋塩釜地協事務局長れずに自宅に帰り着くことができたのでした。ちなみに私は、震度5の地震があった3月9日は、仕事で仙台港付近の労働組合を訪ねている途中で地震警報と津波注意報を聞きました。津波注意報といってもそんなに大きな波が来ることはないだろうとの判断から、そのまま目的地へ。労働組合事務所で話している時にも余震がきてゴツンというような感覚があり、窓の外を見ると大型フェリーに乗っているような感じの気持ちの悪い揺れ方でしたが、津波は来ませんでした。その感覚が残っていたこともあってか、3月11日も揺れ始めは9日の地震の余震ですぐ収まると思いました。逃げ方や、時間が一歩ズレていれば危なかったのだということは、後日、詳細な情報が伝わってきてから分かってきたことだったのです。翌12日、自宅に津波被害がなかったため、事務所の様子を確認するために2人とも出勤しました。しかしビルはドロドロのヘドロに囲まれており、泥だらけになりながら入りました。2人で上がって行くと、3階までは水は到達していなくて濡れていませんでした。片づければ、通電したところで仕事を再開できるのではないかと話し合いました。そして自宅避難を原則としながらも毎日出勤して片づけをし、必要な被災状況確認や安否確認をすることとしたのです。●この間、塩釜地協事務所も、塩竈市内も大変な被災状況だったため、写真を撮るどころではありませんでした。私が撮った写真は1週間後くらいからのものです。また、1週間後くらいに山崎会長が視察に来た時の写真もあります。この時、山崎会長はビルの階段が浮き上がっているような状態を見て、「危ない」「移転先をすぐに探そう」と指示。塩釜地協では、不動産屋をしている塩釜地協OBなどにも相談して、移転先探しを開始した結果、ゴールデンウィーク頃に、現在の第一漁協会館3階(塩釜市北浜1 -1 -12)へと移ることとなりました。地協の中で一番ひどい被災状況の中、事務所の片づけ、構成組織の被災状況と安否確認に移転先探しも加わり、塩釜地協では体がいくつあっても足りない状況でした。連合宮城の対策本部については、4~5日過ぎてから、連合の南雲事務局長がボランティア活動などについて話し合いをするために来仙された時に連合宮城事務所前で撮影した写真があります。当時の山崎会長、米沢副会長、佐藤剛事務局長、冨田副事務局長、櫻井副事務局長が一緒に写っています(たまたま山田副事務局長は写っていません)。被災地では電話も通じず、移動することもできなかった頃なので、地協のメンバーは誰も入っていません。対策本部の会議に来てくれとの連絡が入ったのはその後のことであり、夜中から並んでガソリンを手に入れて顔を出せるようになったのはボランティア受入の準備をするようになった3月下旬以後のことでした。第1章東日本大震災に直面して35