ブックタイトル連合宮城 2011.3.11 東日本大震災 災害救護ボランティア 受入の軌跡

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概要

連合宮城 2011.3.11 東日本大震災 災害救護ボランティア 受入の軌跡

気仙沼地域大崎地域仙台地域仙南地域仙北地域塩釡地域石巻地域3.11津波への証言1山本勝彦気仙沼地協事務局長の回想3月11日は、18時から気仙沼中央公民館で「春季生活闘争・闘争勝利気仙沼地方集会」を開催する予定になっていました。私も、事務局員と一緒に7階建マンションの1階にある地協事務所(気仙沼市化粧坂3-7)で、「寒いね」「人が集まるかな」といった話をしていました。突然グラグラッときて、一瞬、自分は風邪をひいてめまいでもしているかなと思ったのですが、机に山積みしていた書類が崩れ始めたので地震だと分かりました。入口を開けて逃げ道を確保した上で外を見たところ、道路のアスファルト部分が蛇腹のように波打ち、電柱が揺れています。そのうち電線が切れてバチバチと火花を出し、電気が消えました。ただごとではないと気づき、一緒に外に飛び出し、マンション前の駐車場スペースの植込みに避難しました。できるだけ建物から離れようと考えて逃げ込んだのです。揺れが止まってはまた揺れ、の繰り返し。それでも一定程度揺れが収まった15時頃、事務局員が自宅のことが心配なので帰って見てきたいと言い出しました。ちょっと嫌な予感がしたので、帰ってもいいけれど状況確認してからの方がいいよ、それからでも遅くないと思うよ、と答えました。そんな話をしている間にも、マンション上階の住人が子ども連れで下りてきて、地協事務所に逃げ込んできました。ご主人たちは出勤しているため、この建物には男性が私一人しかいなかったこと、地協事務所には倒れるようなものがない会議室があったことなどで避難してきた様子。ソファや椅子に座り、「怖かった」「たいへんだった」などと話すことで気を紛らせていました。頼られた地協としては、とにかく落ち着いてもらおうと考え、事務所にあった飲み物や食べ物を全部出しました。しばらくして、電気も水道も停まってしまった状態では、じっと待っていても何も進展しないだろうと気づきました。私は、小学1年生の子どもが通っている気仙沼小学校が避難所になっているのを思い出し、子どもの安否確認も兼ねて何か分けてもらえないか相談に行ってみようと行動を開始しました。暗くなりかけた道路は大渋滞していたので、向かいのお墓山の裏道を利用して歩き出したのは、15時半頃のことでした。事務所の外に出てみると、先ほどまでは感じなかった潮の匂い。これは津波だなと思ったものの、2日前の津波警報の時が60 cmで膝くらいだったので、大したことはないだろう、せいぜい腰高くらいだろうと高をくくっていました。しかし、潮の匂いが強烈です。墓石が倒れているのも見えました。歩いているのは自分だけかと思っていたら、地元の人たちが大勢歩いています。心配になった私は、すれ違いざまに「誰れ誰れは大丈夫?」などと安否確認しながら小学校へ向かいました。途中、小学校近くの高台からは海岸が見え、バンバンと音を立ててプロパンタンクが破裂し、至るところで白煙をあげているのが見えました。火災が起きていることが分かる状態でした。ようやく、ただごとではないと理解できるようになり、辿り着いた小学校はまだ避難所が開設されていなかったため、急いで地協事務所へとUターンしました。山本勝彦気仙沼地協事務局長会議室などに避難していた皆さんに、目にした状況を伝え、いつまでも利用してもらっていいけれど、ここにはもう飲食物がないし、暖を取る方法もない。明るいうちに、自宅に戻るなり、所定の避難所に逃げるなりする決断が必要ではないかと話しました。懐中電灯が1 0個ほどあったので、それを提供して行動してもらいました。18時頃、全員が戻っていったので事務所を閉め、事務局員とともに退所しました。なお、集会の会場としていた気仙沼中央公民館は、後で分かったことですが、2階まで津波が浸水。いろいろな会議をしていた人や、近隣の幼稚園の子どもや病院を利用していた人などが地震被害を避けるために多数避難していたのですが、最後は避難ばしごを使って屋上に上がり、雪が降り出した寒さの中で身を寄せ合うという修羅場になりました。数本しかないペットボトルを回し飲みしたり、天井をぶち破って中に入ってトイレに利用できるスペースを作ったりしました。後に報道された、猪瀬東京都副知事が東京消防庁のヘリコプターを派遣し、数百人の命を救ったというのがこの場所のことでした。事務所で待っているのではなく会場に先行していたら、気仙沼地協の2人もこの事態に巻き込まれているところだったのです。●発災後、固定電話が不通になったのと携帯電話の電波が悪くて連絡できなかったことに加え、2、3日で携帯電話の電池も切れてしまったため、連合宮城へは全く連絡が取れませんでした。気仙沼市と同じような被害があったはずの石巻市では、櫻井副事務局長の実家が石巻市だっため、櫻井副事務局長が石巻市を訪れた時に石巻地協の事務局長と事務局員に事務所で会うことができて安否は確認されたそうです。しかし気仙沼とはしばらく連絡がとれず、一時、死亡説も流れたと言われました。そんな状態の中、気仙沼地協では、私が事務所にあったポスターを裏返しにして入口に貼り、マジックを1本ぶらさげ、来た人、通る人がメモできるようにしました。「何月何日山本元気に頑張っています」などと書いておくと、それに続けてメッセージを書いてくれる人が次ぎ次ぎ。ささやかながら、コミュニケーションが生まれました。なお、電話が通じない期間の構成組織の安否確認では、車が使えないので、歩ける範囲は1日歩き通して訪ねて行きました。遠方の労働組合までは確認が進まず、結局合計38労働組合中、半分までも確認できず、安否確認が出揃ってきたのは電話が通じるようになった3月末頃のことでした。また、私は気仙沼地協専従とはいえ、気仙沼市職員でした。12日には市役所の上司を訪ね、疲弊しきっている市職員への手伝いを申し出、避難所の運営に携わりました。場所は学校。体育館だけが避難所に指定されていたため、使えるのは体育館だけという状況であることが分かりました。避難している人を校舎に入れてもらえれば少しは寒さが凌げるのではないかと考え、数度にわたって校長先生に折衝。なんとか入れてもらうことができたというエピソードもありました。第1章東日本大震災に直面して31