ブックタイトル連合宮城 2011.3.11 東日本大震災 災害救護ボランティア 受入の軌跡

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概要

連合宮城 2011.3.11 東日本大震災 災害救護ボランティア 受入の軌跡

大崎地域仙台地域仙南地域仙北地域塩釡地域気仙沼地域石巻地域3.11地震への証言7佐竹一則仙南地協事務局長の回想3月11日、仙南地協では大河原オーガを会場に春季生活闘争集会を予定していましたが、私は連合宮城の青年委員会を担当していた関係から、青年委員会主催「春闘フォーラム」開催のためハーネル仙台にいました。会場で来場者の受付などをしていた時に、突然に携帯の緊急地震速報が鳴りました。その機能を知らなかったので「何の音?」と言っていたら、いきなりあの揺れ。私は即座に外に出て、周りの建物が倒壊の心配がないかどうかを確認。すぐに戻って冨田副事務局長と相談して「外に出たほうがよい」と判断し、フォーラム参加者にも錦町公園への避難を伝えました。大地震に襲われた時、仙南地協の18時30分からの集会には何名か参加者がいたようでしたが、直後にたまたま事務局員からの電話が通じて何も問題ないことが分かりました。仙台の方の集会は中止したし、私も戻れそうもないので、仙南地協も中止にしようと指示して参加者には引き取ってもらい、事務局員には帰宅してもらいました。●余震が続く中、仙台の錦町公園では、周りのビルからの避難者も増えてきて、フォーラムの参加者も、連合宮城スタッフもバラバラになってしまいました。雪も降って来たので全員に声かけはできませんでしたが、知った顔を見つけては流れ解散を伝えました。その結果、後に残ったのが、当時の佐藤事務局長と私でした。事務局長の自宅が美里町、私が蔵王町。しかし、連合宮城の連絡車は1台だけ。どうしようという話になり、事務局長は仙台市内の親戚の家に行くので、車は私が乗って帰れということになりました。事務局長を駅まで送るためハーネル仙台を出たのですが、道路は大渋滞だし、仙台駅までで1時間もかかりました。燃料もあまりなく、これじゃダメだ、夜の移動はやめようと判断してハーネル仙台へ引き返しました。春季生活闘争の街頭デモに使っていたマイクロバスの街宣車があったはずだ。スタッドレスだったら蔵王町までの走行も大丈夫だろうと考え、確認してみたら残念ながらノーマルタイヤでした。しかし燃料はたっぷり入っていたので、エンジンをかけて暖房し、誰か来たら乗せてやろうと2人で乗車し、カーラジオを聞いていました。灯りに気づいて、「どんな状況なんですか」と聞きにくる人もいました。そんな中にライフサポートセンターの職員で、駅まで行ったが電車が動いていないので戻って来たという人(川田氏)がいて、3人で車の中に泊まり込むことになりました。何か食料はないかと思い、やっとのことで7階まで階段を上って行ってみたのですが、冷蔵庫が倒れ、飛び出していたペットボトルのお茶があるだけ。その夜は、お茶を飲み、余震を心配しながら街宣車で一晩を過ごしました。夜が明けたところで、連絡車を動かして出発。まず宮城交通出身で、大河原町の仙南地協事務所に自家用車を置いて佐竹一則仙南地協事務局長いた私が宮城交通の村田営業所で降り、川田氏の自宅がある仙台市泉区経由で佐藤事務局長は美里町へと向かいました。宮城交通のバスは運休していて、乗務員は待機中でした。その乗務員の自家用車に乗せてもらって仙南地協事務所へ行き、事務所の状況を確認して私は午後くらいに帰宅しました。私は、13日も事務所に出ましたが、停電し、電話も通じないため、大したこともできずに帰宅。構成組織の被災状況把握、安否確認などに取りかかったのは14日からでした。大河原地区の電話や水道には、そのルートの違いからか復旧に早い遅いがあったため、事務所へは事務局員の自宅から水を運んだりした時期もありました。仙南地協の管轄は宮城県南の4市9町です。名取市、岩沼市、亘理町、山元町の2市2町には津波被害がありました。会社社屋が津波で全壊したり、バスや自家用車の流出、道路の冠水等もあり、帰宅できなくなる人や、電車の運休で1台の車に乗り合わせて帰宅した人など、それぞれのエピソードがありました。電気が通じ、電話が回復した15、6日には全構成組織へFAXを入れ、確認作業を始めました。この間、震災とともに回線が混雑して携帯電話も通じなくなっていたのですが、たまたま震災直後に仙南地協事務所の事務局員への電話が通じ、深夜の24時か25時頃には東京に出張していた山崎会長からの電話が通じました。山崎会長からの電話では、つながったのが私の電話だけだと言われ、どんな状態なのかと聞かれたので、事務局長に代わりました。会長は、東京でテレビを見て状況が分かっていたので事務局長にもその情報を伝え、災害対策本部の立ち上げも決断したのではないかと思います。この電話での会話をきっかけにして、3月14日に連合宮城の災害対策本部がスタートしました。●実は当時、仙南地協は借りていた仙南地方労働福祉会館(柴田郡大河原町末広)が町に移管されることになったため、新しい事務所を現在地(柴田郡柴田町船岡中央1丁目9-1)に見つけ、3月中には移転という計画になっていました。しかし、大地震の影響で電気、電話が停まってしまって、新しい事務所の整備ができず引っ越し業者の手配もできなくなって、引っ越しどころではなくなってしまいましたが、関係者の方々のご協力で、新事務所の電気工事、電話回線工事、そして日通からも日程を合わせていただき、4月18日には引っ越しを行い、ようやく落ち着いたのが4月20日頃のことでした。会長からは新しい事務所の整備を優先するようにと言われ、引っ越しの関係で遅れてしまった構成組織の被災状況、安否確認の作業が優先だったため、震災当初は連合宮城の災害対策本部の会議にも出席していなかったというのが実情でした。第1章東日本大震災に直面して23