ブックタイトル連合宮城 2011.3.11 東日本大震災 災害救護ボランティア 受入の軌跡

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概要

連合宮城 2011.3.11 東日本大震災 災害救護ボランティア 受入の軌跡

大崎地域仙台地域仙南地域仙北地域塩釡地域気仙沼地域石巻地域家電ショップで地震に遭遇3.11地震への証言5北館和彦仙北地協事務局長の回想その日の午後、私は、18時30分からの春季生活闘争集会を記録に残すためにカメラを買ってくるよう事務局員から依頼され、登米市迫の家電ショップにいました。ちょうど中学校の卒業式があったらしく、ゲームソフト売場などは大勢の中学生で賑わっていました。大きな揺れとともに電気が消え、自動ドアは開かなくなりました。私は、駐車場へ避難しようとする人のためにドアを手で開けられるようにしてあげたり、高齢者の方をおぶったりして手伝いました。駐車場も大きく隆起したり陥没したりして、車体がつかえてしまって動けなくなる車が現れました。その車を動かす手伝いもして、1時間くらいそのショップに留まりました。カメラは買えずじまいで、残念ながら被災状況の記録写真は残せませんでした。私は、仙北地協の事務局長ですが連合宮城の専従ではなく、登米市職員組合の書記長の方が専従で、何かあった場合は職員組合に顔を出すこととなっていました。家電ショップを出た後は、近くの自宅に戻って保育園児の子どもの安否確認をし、小学生の娘を迎えに行った後、地協事務所に立ち寄って誰もいないことを確認した上で、職員組合に顔を出しました。そして、登米市職員として被災者への対応などの業務に携わることを確認し、翌日から救援活動などに携わることとなりました。春季生活闘争集会を開く予定になっていた中江公園は市庁舎の目の前だったので、18時少し前くらいには見に行ってみました。降り始めた雪の中で20~30分くらい待ったのですが、誰とも会うことがなかったので自然流会としました。電話が通じるようになってからの話ですが、この集会に関しては「参加しなくてすみませんでした」と言う単組の人がほとんどで、「なぜ中止の連絡を寄越さなかったのか」という非難はありませんでした。北館和彦仙北地協事務局長幹事会さえ開けませんでした。そんな中で、電話が通じないため連絡が取れなかった地協の事務局員とバッタリ顔を合わせたのは、迫の給水所の作業を手伝っている時でした。その時、しばらくの間、出勤しなくてよいことを正式に指示したのです。その一方で、私は18日か20日頃からは仙台にある自治労宮城県本部に顔を出し、仙台に泊まり込んで支援物資を整理して各地に配布するという活動に参加しました。朝早く出かけて夕方帰ってくるという行程で気仙沼市、南三陸町、石巻市、塩竈市などをまわり、被災状況を把握し、できる範囲で安否確認をするという作業をこなしました。自治労宮城県本部で仕事をしている時に、同じ自治労出身の佐藤剛連合宮城事務局長と藤村仙北地協議長に会いました。そこで、仙北地協事務所を当分の間閉鎖し、事務局員を休ませたことを報告し、一応の了解を得たのです。その後、自治労の仕事中心に自治労宮城県本部の支援物資の配布などの活動は、4月1日以降は、東京の自治労本部からのボランティアを受け入れ、仙台市と松島町にベースキャンプ(B C)を設けて、地域からのニーズを把握しながら対応する形に変化しました。私は、大観荘に設けられた松島B Cに張りつくことになり、8月いっぱいくらいまで、週4日程度B Cに泊まり、配給作業などに取り組みました。これは、連合宮城の活動とは異なるので詳細は省略します。結局、仙北地協としては連合宮城のボランティア受入活動には関わることはありませんでしたが、私は一度だけ、気仙沼市での活動に参加したことがあります。8月頃、気仙沼地協の山本事務局長の体調を考え、1週間の内の数日ほど代行したのです。現地のボランティアセンター(VC)に出向き、作業の内容を聞き、ボランティアグループに指示し、管理したり、一緒に作業したりするという内容でした。第1章東日本大震災に直面して地協活動の休止私は、パソコンにつなぐとテレビなどが見られるワンセグを持っていました。庁舎の補助電源を使って、なんとかワンセグが利用できるようになって分かったことは海岸部の津波被害の情報でした。東京電力の原子力発電所の事故情報も入りました。翌日には自宅から補助アンテナも持ち込み、庁舎のテレビが見られるようにしました。それで、気仙沼や南三陸の被害状況が分かるようになり、登米など内陸部への避難が切実な課題になるかもしれないといった話になりました。また私は、ミクシーを使って南三陸町の友人とも連絡が取れ、安否確認ができたり、何か必要な物資があるかなどの話をすることもできました。その後、私は、迫支所の救援活動などを手伝いながら、時間が取れれば地協事務所に立ち寄って少しずつ片づけに着手しましたが、気の遠くなるような作業でした。5月の連休くらいにようやく片づいたものの、この間、地協では3.11地震を振り返ってみて私は、小学生の時に宮城県沖地震(19 7 8年)を経験し、最近では岩手・宮城内陸地震(2008年)を経験しました。宮城県沖地震では立っていられなかったのを覚えていますが、今回の地震でも立っていられない状態でした。地面が「くの字」のように歪み、家電ショップと同じ敷地内のスーパーの建物が大きく揺れて歪み、貯水槽のフタがボンボン飛んで水がジャバジャバとあふれ出しました。しかし、翌12日の朝、自転車で迫支所に出勤すると、町中の被害状況を調査して来いという話になりました。その行動の中で見た感じでは、宮城県沖地震の時に見たような家屋の倒壊はほとんどなかったということでした。岩手・宮城内陸地震の後に、耐震強化が進んだおかげで、倒壊するような建物は少なくなっていたということなのでしょう。防災対策がそれなりに成果を上げているのが分かったのと同時に、その取り組みを継続しながら、今後は情報・連絡網の整備が大きな課題だとも感じられました。19