ブックタイトル連合宮城 2011.3.11 東日本大震災 災害救護ボランティア 受入の軌跡

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概要

連合宮城 2011.3.11 東日本大震災 災害救護ボランティア 受入の軌跡

大崎地域仙台地域仙南地域仙北地域塩釡地域気仙沼地域石巻地域3.11地震への証言3山田俊徳副事務局長の回想山田俊徳副事務局長3月11日は、午前中に仙台市青葉区北仙台にある宮城交通労働組合の会議に出席。午後の連合宮城の春季生活闘争関連集会に参加するため車で自宅に戻り、バスで仙台駅方面へと向かっている途中でした。地震が来たのは仙台文学館のあるあたりでした。サスペンションの影響でしょうか、上下左右に大きな揺れで、バスが倒れてしまうのではないかというくらいの勢いです。バスは停止し、運転手が「あわてないでください」「おつかまりください」とマイクで案内。道路側の建物が倒れてくるような事態に備えて、バスを中央線に寄せ、しばらく動かずにいました。そのうち道路の信号が消え、バスも窓ガラスが割れたりしてきたので、「ここで降りられた方が宜しいのではないでしょうか」との運転手の判断。乗客は5~6人でしたが、全員降車することを選択し、三々五々歩き出しました。すぐに連合宮城事務所に電話をしたのですが、携帯はつながりません。道路も麻痺状態で、事務所まで歩いて行くという選択はできませんでした。とりあえずは、自宅に戻って家族の安否を確認しながら状況を把握し、次の行動を考えようと腹を決めました。自宅に戻ろうとして歩き始めた時、タイミング良くタクシーが拾え、自宅へ。子どもの安否を確認しようと考え、まずは小学校へ行き、校庭に集まっていたので引き取りました。中学生の子どもは野球部所属でしたが、グラウンドで練習をしていたところだったようで、強い揺れになったので解散になったということで帰ってきました。家の中はグチャグチャで、足の踏み場もないといった状態でした。勤めている妻とは連絡が取れません。やむを得ず、近くの妻の実家に子どもたちを連れていき、自分は仙台市泉区泉ケ丘の自分の実家の安否確認へと向かいました。たいへんな渋滞でしたが、なんとか確認できたので妻の実家に戻りました。この間にも、テレビ、ラジオがつながらないため状況把握はできないし、事務所への連絡も取れませんでした。東京出張中の会長に指示を仰ごうとして携帯電話もしたのですが、こちらもなかなかつながりません。つながったのは19時~2 0時くらいで、連絡が取れたのは私が最初だったような口ぶりでした。東京出張中の会長はテレビで情報を得ていたらしく、どんな状況かと聞かれましたが、私には答えられる材料が全くなく、何も伝えられずに、いつ仙台に戻って来れるかを尋ねた程度でした。●本部に顔を出したのは、翌12日だったように記憶しています。建物は閉鎖されていて、入れません。会館の職員が1人いて、建物の被災状況のひどさを聞きました。冨田副事務局長が来ていて、この建物に入れなくなったらどうしようと話し合ったような気がしますが、具体的な進展はなく、まもなく解散しました。13日は休み、出勤したのは1 4日です。会長がその場にいたのかどうか私にははっきりした記憶がありませんが、連合宮城事務局は全員揃っていました。自己責任でとにかく事務所に入ろうという話になりました。エレベーターは停まっていたので、階段を歩いて7階へ。事務所は足の踏み場もないような状態で、その片づけから始めました。そしてグチャグチャになった棚から、連合宮城で作成していた震災対策マニュアルを引っ張り出し、それを参考に連合宮城の災害対策本部を立ち上げたのだったと思います。マニュアルには、まず安否確認や状況把握をすることが書かれていました。それに従い、役員、地協、構成組織の安否確認に取りかかりました。15日頃から携帯電話とFAXが使えるようになったのではないかと思います。パソコンは動かなくなっていたので、手書きの安否確認書をFAXしたような記憶があります。特に担当が決まっていたわけではありませんが、連合など外部との連絡は総務担当の私が担当しました。連合山形さんに手伝ってもらったのも忘れられません。各地協ごとに構成組織の被災状況確認、安否確認をしました。連合宮城でも、私が中心になって連合宮城関連組織への連絡をしました。こちらから説明する前に情報を提供してくれた構成組織もあります。連絡体制がしっかりと整えられている構成組織だと感じられました。逆に、この状況の中で何を面倒なことを言っているんだと怒られた構成組織もあります。全体としては、これだけの被災状況の中ではすぐに資料やデータを出せるものではないというのが実感でした。16東日本大震災復興の活動記録