ブックタイトル連合宮城 2011.3.11 東日本大震災 災害救護ボランティア 受入の軌跡

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概要

連合宮城 2011.3.11 東日本大震災 災害救護ボランティア 受入の軌跡

大崎地域仙台地域仙南地域仙北地域塩釡地域気仙沼地域石巻地域3.11地震への証言2櫻井智昭副事務局長の回想3月1 1日1 4時4 6分頃は、1 5時から開催される「青年委員会春闘フォーラム」に講師として招いていた連合菅谷副事務局長(自治労副会長)とハーネル仙台7階の連合宮城事務所で対応していました。そこへ地震が発生。揺れが思った以上に大きいことから、私は咄嗟の判断で、会議室の大きなテーブルへ逃げ込みました。テーブルの下に居ながらも揺れは大きく体が左右へ引っ張られながらもテーブルの脚に捕まっていました。なかなか揺れが収まらない中、事務局員の悲鳴や大きな物が倒れる音、建物が軋む音などが聞こえました。揺れが収まりかけたところへ、また大きな揺れが続き、その度、ニュージーランド地震の建物崩壊シーンが脳裏に浮かび、もうダメか、もう死ぬのかと思っていました。ようやく揺れが収まり、事務室にいた菅谷副事務局長と事務局員、アドバイザーに怪我の無いことを確認した後、事務室内の散乱した状況に愕然としました。ふと、会議室の窓から、近くの錦町公園に人が集まり出しているのが見えたことから、私たちも錦町公園へ避難することにしました。錦町公園には多くの人が集まり、不安の声やメールを打つ人、情報を得る人でごった返していました。私も家族へメールを入れたところ、間もなく返信があり、家族の無事を確認することができました。そこへ余震。ビルの軋む音、泣き出す人、海岸で大津波警報10メートルだと心配する声が聞こえました。錦町公園では、18時から「春季生活闘争・闘争勝利総決起集会」が予定されていましたが、中止とし、連絡手段はありませんでしたが、青年委員会春闘フォーラム参加者には中止を伝え、私たちも一旦解散し14日に対応を協議することにしました。菅谷副事務局長については、自力で帰るということでそこで別れました。後日聞いた話では、仙台駅へ行ったものの閉鎖されており、その晩は県庁か仙台市役所で一夜を明かし、山形経由で東京へ戻られたとのことでした。私は、安否確認のため宮城県東北電力総連があるS S 3 0ビル(住友生命仙台中央ビル)へ向かい、安否報告をするとともに、余震が何回も襲ってくる中、情報収集をしていました。その中で、名取市で死体が200名~300名いる櫻井智昭副事務局長との情報がラジオから流れ、その時は何が起きているのか分かりませんでした。のちに、津波が襲った事実により理解することができました。また、石巻にいる母に連絡を入れましたが連絡は取れませんでした。宮城県東北電力総連では23時頃解散し、翌日集合し情報収集することになりました。仙台市青葉区国見の自宅までは、運よくタクシーを拾えたことから、スムーズに帰れましたが、自宅は停電しており、真っ暗の中家族と再会しました。12日は自宅から自転車で宮城県東北電力総連へ向かい情報収集していましたが、SS30も安全上退去するよう指示があり、仙台市青葉区立町にある東北電力労働組合本部に移り、引き続き情報収集にあたりました。翌13日も同様の行動をしました。14日連合宮城に出向き、今後の対応について協議するとともに「連合宮城東日本大震災災害対策本部」を立ち上げ、先ずは地協、構成組織の安否確認を最優先に行うことを確認しました。地協に関しては、14日か15日には石巻・気仙沼地協を除き安否を確認できたと記憶しております。17日には、全自交労連のご協力を得て、石巻地協までタクシーで向かうことができました。石巻地協の事務室へ入った時、加藤事務局長と中塚事務局員が在席しており、安心するとともにようやく石巻地協の安否確認ができました。なお、石巻地域は津波の影響から通信状況が非常に悪くなっていました。石巻の母については、自宅近くの避難所を探しましたがおらず、自宅を訪問したら居たことから、仙台の私の自宅へ避難することにしました。18日には、気仙沼地協山本事務局長から、安否確認メールを受信し、ようやく全地協の安否確認ができました。連合との連絡については、連合山形の斉藤副事務局長から携帯電話で連絡が入り、連合山形が窓口となり、パソコンメールでやり取りすることになりました。その後は、連合宮城として何ができるのか?連合として何ができるのか?それらを踏まえた活動に移っていきました。第1章東日本大震災に直面して15