ブックタイトル連合宮城 2011.3.11 東日本大震災 災害救護ボランティア 受入の軌跡

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概要

連合宮城 2011.3.11 東日本大震災 災害救護ボランティア 受入の軌跡

大崎地域仙台地域仙南地域仙北地域塩釡地域気仙沼地域石巻地域3.11地震への証言1佐藤剛事務局長の回想佐藤剛事務局長3月11日は、連合宮城を代表して、仙台駅東口のMTビルで開かれた宮城労働局の職業訓練関係の会議に参加していました。終わって非常停止したエレベーターから出たところで地震に逢いました。道路が大きく波打ち、交通が混乱する中、30分ほど歩いてハーネル仙台に戻ったところで、錦町公園から戻ってきた事務局員に合流。建物は危険な状態だということで、その場で解散にしました。私は美里町小牛田から通っていたのですが、電車もバスも停まってしまい、帰る足がなくなりました。同じように足がなくなった佐竹仙南地協事務局長とライフサポートセンターの職員を街宣車に乗せて送ろうとしたのですが、信号も街灯も消え、道路が極めて危険な状態であったため事務所前で、その日は3人で車中泊しました。翌12日には早朝から動きだし、事務所の様子確認のため立ち寄ってみました。しかし、危険な状態だと判断し村田町、仙台市泉区と走って2人を送り届けた後、そのまま連合車で自宅へと帰りました。週が明けた1 4日、私は、連合車で事務所に駆けつけました。東京の連合に出張中の会長を除く全員が揃い、事務所への入室は禁じられていましたが、「自己責任」のもと入館しました。ムリヤリ入室した事務所は、足の踏み場もない状態でした。役割分担などなしで、全員で片づけ、安否確認連絡に着手しました。電気、電話が通じていないため、できるところから地協、構成組織への安否確認、被災状況の把握を始めました。15日以降は、ガソリンが入手できないため、タクシーで。その後はタクシーでJ R古川駅へ、古川から高速バスで。また、電気、電話が通じ、パソコン、FAXでの連絡が可能になったことから地協の安否確認が進みました。そして17日、櫻井副事務局長が実家のある石巻に親族の安否確認に訪ねた折り、たまたま避難所で加藤石巻地協事務局長と会い、石巻地協の安否確認ができたこと。また、18日には山本気仙沼地協事務局長からメールを受信し、地協の安否確認が完了したという結果になりました。会長が戻って来たのは、16日だったのではないかと思います。会長を本部長、事務局長を総括責任者とする「連合宮城東日本大地震対策本部」を18日に立ち上げ、これを窓口としてボンティア受け入れについても連合と正式に話し合いを持つようになりました。このようにして初動時期を乗り切ったあたりで、事務局員は自宅待機にしたのではなかったかと思います。それにしても、エレベーターはしばらくの間、停まっていたため、7階の事務所まで階段の上り下りはたいへんなハードワークでした。また物流が破綻していて、出勤した誰もが満足に食事もしていないような状態でした。15日には、私が自宅から30kgの米を持参し、役員がダイエーなどに並んで手に入れた食料を使って調理し、お腹を満たす体制を整えました。県庁・仙台市役所に近いエリアにあったためか電気は早々に通じ、水は給水塔に残っていたもので、ご飯が炊け、簡単な調理ができたのです。私は、パソコンが使えるようになった頃から毎日の動きを記録し始めました。「東日本大震災(東北地方太平洋沖地震)対応経過について」の形で残っています。14東日本大震災復興の活動記録