ブックタイトル連合宮城 2011.3.11 東日本大震災 災害救護ボランティア 受入の軌跡
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連合宮城 2011.3.11 東日本大震災 災害救護ボランティア 受入の軌跡
気仙沼のボランティア活動の始まり3月20日頃、電気と電話が通じたところで、「仙台に来い」という連合宮城から連絡。ガソリンを手に入れるまでに3日ほどかけ、2日にわたって仙台で開かれた会議に出席しました。朝早くに出発し夜遅くに帰るという状況でしたが、ようやく仙台をはじめとした連合宮城の情報に接することができました。その会議で聞いたのが、3月30日から奥州市に連合のボランティアが入り、気仙沼市に差し向けるので地協で対応を宜しくという話。初めて、自分が連合宮城のボランティア受入本部現地対策班の一員であること、ボランティアが気仙沼市に入ることが分かり、来ることが決まっている以上やらなければならないと決断しました。3月30日に第1クルーのバスを迎えるため、何日かかけてガソリンを満タンにして衣川へ。連合では、せっかく来たのだからと私にも夕食を出してくれました。それまで満足な食事ができないでいた私も、久しぶりにお腹いっぱいになるものでした。姫乃屋が言うには、「ここには、電気もあり、食べ物も豊富で、何の不自由もない。明日から被災地に入り、被災者のために働くボランティアの皆さんなのだから、せめてお腹いっぱいにして頑張って欲しい。」というもてなしでした。これならうまくいきそうだとホッとしたのを覚えています。ヒアリングコラム10気仙沼地域のボランティア活動を振り返って気仙沼周辺では何が起こっていたか、姫乃屋BC・千厩BCで何ができたか気仙沼地域協議会山本勝彦事務局長(所属:自治労・気仙沼市職員組合)毎日の作業は、5~6人のチームをいくつかつくり、複数の現場に散っていくという方式です。私は、前日の夕方にVCからどことどこに入ってくれと指示を受けると、できる限り現場に行き、バスを乗り入れることができるかどうか、ボランティアに適した現場かどうかをチェックし、トイレの位置や、何かあった場合に逃げる場所なども確認しておきました。そして、毎朝、BCから出発するバスを迎えに行き、一緒にその日の作業現場に入るというのが、私の毎日の役割です。気仙沼地協から姫乃屋BCまでは、車で1時間半から2時間かかります。現地に10時くらいに入るには8時くらいのBC出発、そのためには私は6時~6時半くらいに自宅出発が必要です。千厩BCへ、さらには新千厩BCへと拠点が移り、少しずつ気仙沼市に近づきましたが、毎日の行動はほぼ同じパターンでした。仙台BCでは、一ヵ所での作業が多かったようですが、気仙沼市では現場が市内各地に広がりました。気仙沼市のボランティアのたいへんだったところだと思います。また、気仙沼地協の対応では、地協事務所が幹線道路沿いに位置しており、電気の復旧が早かったことから、道行く人に対し、携帯電話の充電を行ったり、避難所で生活している方々のために入浴送迎ボランティアバスを運行し、入浴の補助を行いました。3月23日からは、地協事務所内に東北労金気仙沼支店臨時店舗も開設されました。さらに、事務局員も現場に出てボランティア作業に参加しました。事務局員は自宅が全壊したため、休んで自宅の片づけをするように指示していたのですが、ボランティアに参加させてほしいという本人からの強い意向です。ボランティアに参加することにより、ボランティアに恩返しをしたいというのです。また、発災以後、休みなく仕事をしている私の姿を見ていたら、自分も何かしなければと感じたとも。その強い意思を汲んで、女性用トイレを確保できたところに入ってもらうことを決め、1週間単位のクルー作業の中にある中間の休日に休みを取るよう指示しました。気仙沼のボランティア活動で感じたこと遠隔地である上に、ボランティア対応に追われたため、連合宮城の会議に参加したのは月1回程度でした。その会議は、情報交換をした上で、ボランティアをスムーズに運営していくためにどうすればよいか相談をするという流れだった記憶があります。その会議で、ボランティアが始まったばかりの頃、気仙沼市のボランティアで注意して欲しいことを強調したことがありました。気仙沼では、津波でガソリン、重油タンクが流され、海面に広がった油が内陸にまで押し上げられて火災が起きました。1~2週間続き、燃えてしまったはずですが、タール状態の重油がまだ残っているような状態でした。そのような状況の中で100東日本大震災復興の活動記録